山陽道中膝栗毛防州篇
年末に帰省した折、旧制高校巡礼の一環として広島に赴いた。
実家の在る小倉から新幹線に乗れば広島まで僅か1時間だが、途中山口に寄る為に
往路は在来線を使う事にした。
東京にいた中・高時代や、福岡の大学時代にはしばしば青春18切符を使って鈍行で
片道20時間以上掛けて東京・福岡間を往来したもので、その際に山陽本線で山口県を
通過した事は何度もあったが、山口自体を目的として在来線に乗るのは今回が初めて。
小倉が地元の割に今回の旅行まで知らなかったのだが、小倉駅からJR鹿児島本線の
上り方面に乗ると、行き先は門司港駅と下関駅の2種類がある。
小倉駅−門司駅⊥小森江駅−門司港駅となっていて、門司港駅は行き止まりの盲端。
一方門司駅から山陽本線が分岐して関門トンネルを通って下関駅に至る。
今回はたまたま飛び乗った電車が下関駅行きだったので良かったものの、よく知らずに
門司港駅行きに乗っていたら門司駅まで引き返す羽目になっていた所だった。
長門国下関駅でJR西日本の山陽本線広島方面行きに乗り換える。
門司駅−下関駅間は路線の戸籍上は山陽本線だが、関門トンネルと併せて管理者は
JR九州になっているようで若干ややこしい。
それにしても小倉駅から下関駅まで2駅15分足らずで、こんなに近いとは思わなかった。
下関地区の人達が県を越えて(というか島を越えて)ショッピングや娯楽を求めて小倉や
博多まで来たりするというのもさもありなんと頷ける。
かねてより九州と山口の結び付きは強く、九州経済連合会(九経連)の以前の正式名称は
九州・山口経済連合会だったし、北九州市と下関市が越県合併して「関門特別市」を創る
構想もある。
他にも山口県知事は中国知事会と九州知事会の双方に出席するなど、Wikipedia記事の
「九州・山口地方」に様々な例が挙げられているので興味のある向きは参照されたい。
新幹線停車駅でもある山陽本線新山口駅(旧称小郡駅)で単線の山口線に乗り換え、
周防国山口駅に至る。
ここへ来た目的は2つあって、1つは旧制山口高のおまけ用の山口駅を駅舎から駅名票に
変更する為に写真を撮り直す事と、もう1つは旧制山口高同窓会がパークロードに寄贈した
植樹の記念碑がどこかに設置されていないか探す事。
前回訪問時は家族で車で湯田温泉に来たついでだったので、どちらも実行不可能だった。
(尤も旧制山口高を取材するついでに湯田温泉に入ったという方が正しいが)
山口駅から山口県庁に至る道はパークロードとして街路樹が美しく整備されている。
まず往路は東側の歩道を県庁まで進んで記念碑を丹念に探したが、見当たらなかった。
突き当たりには現在山口県政資料館として使われている旧県庁舎が建っていた。
大正5年に竣工し、昭和59年の新庁舎完成まで現役庁舎として使われ、機能移転後の
同年に国の重要文化財に指定された由。
背後に見えている高層建物が新庁舎。
↓

その近傍に旧山口藩庁門が建っていた。
第13代長州藩主毛利敬親公が幕末の文久3年(1863年)に藩都を萩から山口へ移転させ、
当地に政事堂や藩庁門が建てられたらしい。
列強の世界進出の足音がひたひたと迫る中、日本の独立を如何に守るべきか、祖先から
脈々と受け継がれてきた日本国がこれから如何に世界に伍していくべきか、一刻の猶予も
許されない緊張感を以って長州藩の志士達が幾度もこの門をくぐり抜けた事だろう。
↓

県庁からパークロードの西側の歩道を山口駅に向かって引き返す。
程無くして何やら趣きの有りそうな近代建築に遭遇したのでカメラに収めた。
調べてみると昭和3年にジャーマン・セセッション様式で建てられた旧県立山口図書館で、
現在は山口県春日山庁舎として使用されている由。
↓

更に歩を進めると、歳月を経た落ち着きを漂わせている赤煉瓦造りが目に留まった。
後日調べてみると大正6年に建てられた旧維新記念室で、隣接している旧県立教育博物館
(現県立山口博物館)付属の建物として維新関連資料を展示していたらしい。
現在は単なる物置になっており、訪う人も稀に静かに余生を送っているように見える。
↓

東側同様西側にも結局目的の植樹記念碑は発見できなかった。
しかし山口線は単線で本数が少なく、次の電車を逃すと広島到着が更に遅れてしまうので、
捜索を打ち切って山陽本線に乗り換える為に新山口駅に向かう事にした。
山口駅の駅名表示板の写真を撮れたのでとりあえず満足。
ところで前回来た時にも感じたが、山口は県庁所在地にしては驚く程商業地化されておらず、
良く云えば閑静、悪く云えば寂寥としている。
全国の県庁所在地の中で人口・人口密度共に最少らしい。
その原因として明治期の鉄道忌避運動により山陽本線が山口を回避して小郡(現新山口駅)を
通る経路に設定された事が挙げられている。
山口がその判断の誤りに気付いた時には遅きに失していて、小郡は交通の要衝として発展し、
戦後には新幹線の停車駅にまでなった。
現在でも企業の山口支社・支店・営業所等は新山口駅周辺に集積している。
が、或る一面では室町期の大内氏以来の小京都たる風情と、長州藩の幕末動乱の舞台たる
歴史遺産の要素をタイムカプセルの如くに保存する事に成功しているとも云え、金太郎飴的な
支店経済型地方都市に堕さずに慎ましく個性を保ち続けている。
次回は芸州篇です☆
実家の在る小倉から新幹線に乗れば広島まで僅か1時間だが、途中山口に寄る為に
往路は在来線を使う事にした。
東京にいた中・高時代や、福岡の大学時代にはしばしば青春18切符を使って鈍行で
片道20時間以上掛けて東京・福岡間を往来したもので、その際に山陽本線で山口県を
通過した事は何度もあったが、山口自体を目的として在来線に乗るのは今回が初めて。
小倉が地元の割に今回の旅行まで知らなかったのだが、小倉駅からJR鹿児島本線の
上り方面に乗ると、行き先は門司港駅と下関駅の2種類がある。
小倉駅−門司駅⊥小森江駅−門司港駅となっていて、門司港駅は行き止まりの盲端。
一方門司駅から山陽本線が分岐して関門トンネルを通って下関駅に至る。
今回はたまたま飛び乗った電車が下関駅行きだったので良かったものの、よく知らずに
門司港駅行きに乗っていたら門司駅まで引き返す羽目になっていた所だった。
長門国下関駅でJR西日本の山陽本線広島方面行きに乗り換える。
門司駅−下関駅間は路線の戸籍上は山陽本線だが、関門トンネルと併せて管理者は
JR九州になっているようで若干ややこしい。
それにしても小倉駅から下関駅まで2駅15分足らずで、こんなに近いとは思わなかった。
下関地区の人達が県を越えて(というか島を越えて)ショッピングや娯楽を求めて小倉や
博多まで来たりするというのもさもありなんと頷ける。
かねてより九州と山口の結び付きは強く、九州経済連合会(九経連)の以前の正式名称は
九州・山口経済連合会だったし、北九州市と下関市が越県合併して「関門特別市」を創る
構想もある。
他にも山口県知事は中国知事会と九州知事会の双方に出席するなど、Wikipedia記事の
「九州・山口地方」に様々な例が挙げられているので興味のある向きは参照されたい。
新幹線停車駅でもある山陽本線新山口駅(旧称小郡駅)で単線の山口線に乗り換え、
周防国山口駅に至る。
ここへ来た目的は2つあって、1つは旧制山口高のおまけ用の山口駅を駅舎から駅名票に
変更する為に写真を撮り直す事と、もう1つは旧制山口高同窓会がパークロードに寄贈した
植樹の記念碑がどこかに設置されていないか探す事。
前回訪問時は家族で車で湯田温泉に来たついでだったので、どちらも実行不可能だった。
(尤も旧制山口高を取材するついでに湯田温泉に入ったという方が正しいが)
山口駅から山口県庁に至る道はパークロードとして街路樹が美しく整備されている。
まず往路は東側の歩道を県庁まで進んで記念碑を丹念に探したが、見当たらなかった。
突き当たりには現在山口県政資料館として使われている旧県庁舎が建っていた。
大正5年に竣工し、昭和59年の新庁舎完成まで現役庁舎として使われ、機能移転後の
同年に国の重要文化財に指定された由。
背後に見えている高層建物が新庁舎。
↓

その近傍に旧山口藩庁門が建っていた。
第13代長州藩主毛利敬親公が幕末の文久3年(1863年)に藩都を萩から山口へ移転させ、
当地に政事堂や藩庁門が建てられたらしい。
列強の世界進出の足音がひたひたと迫る中、日本の独立を如何に守るべきか、祖先から
脈々と受け継がれてきた日本国がこれから如何に世界に伍していくべきか、一刻の猶予も
許されない緊張感を以って長州藩の志士達が幾度もこの門をくぐり抜けた事だろう。
↓

県庁からパークロードの西側の歩道を山口駅に向かって引き返す。
程無くして何やら趣きの有りそうな近代建築に遭遇したのでカメラに収めた。
調べてみると昭和3年にジャーマン・セセッション様式で建てられた旧県立山口図書館で、
現在は山口県春日山庁舎として使用されている由。
↓

更に歩を進めると、歳月を経た落ち着きを漂わせている赤煉瓦造りが目に留まった。
後日調べてみると大正6年に建てられた旧維新記念室で、隣接している旧県立教育博物館
(現県立山口博物館)付属の建物として維新関連資料を展示していたらしい。
現在は単なる物置になっており、訪う人も稀に静かに余生を送っているように見える。
↓

東側同様西側にも結局目的の植樹記念碑は発見できなかった。
しかし山口線は単線で本数が少なく、次の電車を逃すと広島到着が更に遅れてしまうので、
捜索を打ち切って山陽本線に乗り換える為に新山口駅に向かう事にした。
山口駅の駅名表示板の写真を撮れたのでとりあえず満足。
ところで前回来た時にも感じたが、山口は県庁所在地にしては驚く程商業地化されておらず、
良く云えば閑静、悪く云えば寂寥としている。
全国の県庁所在地の中で人口・人口密度共に最少らしい。
その原因として明治期の鉄道忌避運動により山陽本線が山口を回避して小郡(現新山口駅)を
通る経路に設定された事が挙げられている。
山口がその判断の誤りに気付いた時には遅きに失していて、小郡は交通の要衝として発展し、
戦後には新幹線の停車駅にまでなった。
現在でも企業の山口支社・支店・営業所等は新山口駅周辺に集積している。
が、或る一面では室町期の大内氏以来の小京都たる風情と、長州藩の幕末動乱の舞台たる
歴史遺産の要素をタイムカプセルの如くに保存する事に成功しているとも云え、金太郎飴的な
支店経済型地方都市に堕さずに慎ましく個性を保ち続けている。
次回は芸州篇です☆
![[通堂主人]](http://blog-imgs-17.fc2.com/k/a/y/kayoidoannex/tooth2s.jpg)